ねこみんの投資生活

ふつうの塾講師が適応障害をきっかけに投資を勉強していくブログです

【読書42冊目】伝説のファンドマネジャーが見た 日本株式投資100年史 山下裕士

【政府の市場への介入効果は限定的】
株価が高値圏にあったのは、企業業績が好調を続けているゆえであることはもちろんだが、日銀のETF買いが続いていることも大きな要因になっていた。
思い出すのは、岩戸景気を背景とした投信ブームで熱狂した強気相場が、金融引き締めをきっかけに反転した市場のことである。
1961年(昭和36年)7月の1829円高値から最終的に65年7月の1026円まで4年間、45%の下げ相場となったが、この下げ相場を食い止めるべく、64年1月に設立されたのが日本共同証券だったことはすでに述べた。
日本共同証券は2000億円の資金を使ってダウ平均1200円を1年間防衛したが、その資金を使い尽くした65年1月には、相場は防衛戦を破られて一段の下げ相場になってしまった。
当時の時価総額は11兆6500億円で、2000億円という資金はその1.7%にあたる。
この資金を使っても、相場の流れを一時的に止めることはできたが、流れの方向を変えることはできなかったのである。
日銀のETF買いは1年に12兆円、今の時価総額の2%強である。当時の日本共同証券に比べてインパクトは大きい。しかも、日本共同証券は1回限りであったのに対して、今回の日銀ETFはこの後、何年続くのだろうか?(P.52)
→政府の株価への介入の効果は、限定的になる場合もある。今回はコロナ禍を経てバブル並みの水準まで上がり続けているが、持続性はいかほどか見極めていきたい。
 
上杉鷹山の教え】
働き 一両
考え 五両
知恵借り 十両
コツ借り 五十両
ひらめき 百両
人知り 三百両
歴史に学ぶ 五百両
見切り 千両
無欲 万両
(P.68)
上杉鷹山天明の大飢饉の時代に米沢藩の藩財政を建て直し、殖産興業を図った名君。
「見切り千両」は彼の言葉だったのか。
 
【日本の株式取引所事始め】
日本で初めての株式取引所ができたのは、1878年(明治11年)である。この年の6月1日、渋沢栄一らによって東京株式取引所が設立された。日本の株取引の歴史はここから始まる。開業時の上場銘柄は旧公債・新公債・秩禄公債の3公債だけで、同年7月には東京株式取引所株式が上場されている。(P.86)
渋沢栄一徳川昭武随行してヨーロッパに航った際、株式取引を自ら経験したと言われている。そんな経験も背景にあったのかもしれない。
 
【戦前・戦後通して繰り返す10年サイクル】
日本が高度経済成長を続けていたときは、本当の意味での長期投資で充分な成果を得られた。しかし、当時の証券会社は個人投資家に短期の回転商いをすすめ、結果として個人投資家の裾野を広げることができなかった。
今は低成長時代である。89年のバブルのピークを経て高度経済成長は昔の話になった。もちろん低成長経済のもとでも、株価は10年ごとに上げ・下げを繰り返している。今後も10年サイクルが続くとは限らないが、安いときに買って高いときに売る、そして次の買い場まで休むという時代に戻ったのではないか。
先述の福沢桃介によれば、「真の相場師は、いわゆる大きな相場の波だけを注目している。何年かの間に一度しかやってこない好機を狙っているのだ。大相場を制約する景気変動についても人一倍の調査研究をする」とのこと。
休んでいる間も政治・経済・社会の勉強を怠ると、次のチャンスを逃すことになる。本間宗久翁の次の言葉も肝に銘じておきたい。
「相場の世界は孤独、頼れるのは自分の判断力、決断力、資金力だけ。他人に相場観を聞いて失敗すると友情とお金、そして相場を徹底的に勉強するチャンスを失う」(P.285~286)
→戦前・戦後を通して、大きな相場の上がり・下がりは何度も繰り返されてきた。今はグローバリゼーションで世界経済が連動する傾向が強くなっているため、より世界の動向に目を向けておくとよいかもしれない。